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名も無き者の戯れ言 投稿

The Good Looking Bike I Ever Seen !

ここは梅田のど真ん中に位置するお初天神、カメラ片手に彷徨っていたら、あまり上手く行かないなと、いい加減諦めの気分となり、飲食店が肩を寄せ合う路地を抜けようとした時、思わず足が止まったのは、風景に溶け込んで一台の自転車が佇んでいた、ほとんど一目惚れと言うくらいの衝撃を受けて、どこに被写体が転がっているかわからないもんだ、取り敢えず、写真を何枚も撮ってみた訳だが、その時すでにこのアイディアが頭に浮かんでいただろう。

自身がロードバイクに乗っていて、打てば響くみたいに思うところあり、そこで思い出されるのが、何でも最高のレースマシンとは、たった一回の本番を走っただけで壊れてしまう、それ程までにチューンナップされたもの、そうF1界の誰か有名な開発者が語ったらしい、競技用機材として性能を追求された最新のカーボンフレームバイク、これもまたご多分に漏れず、随分遠くまで来たもんだと驚きの反面、日常の実用性からしたら、地に足が着いてないような気配がそこはかと…

それは炭素繊維強化プラスチックのこと、無理矢理に喩えるとペットボトルの延長線上みたい、これも技術の進歩により生み出され、従来の金属に取って代わった最新の素材だけれど、ふむ、自転車に乗れば乗るほどに、性能がすべてではなくて、乗るからには楽しくなければ、と気付かされることしばし… この金属ならではの、しなりを生かした、血の通ったような、一生モノの耐久性を誇る、昔ながらのクロモリフレームに原点回帰するのも、よくある話なのだ。

1 いつも大阪城に行くと、再建された本丸よりも石垣のほうに想像力をたくましくするもの、つまり、時の風化を耐え忍び、年輪が刻まれ、それだけの貫禄を放つ、背後にある岩の積み重ねに負けず劣らずマッチングしている、この自転車とは只者ではない。

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撮り鉄のつもりはないけれど

誰しもが子供の頃を思い出すのなら、電車に無条件な魅力を感じていたのでは、そうして今、写真を始めてみると俄然こいつを撮りたくなったもので、と言っても、鉄オタみたいに博学的な探究心があるわけでなし、単純に映えるからという理由なのだが、何故これほどまでにエモいのか、もう一歩踏み込んで考えてみると…

動きものならではの尚且つ暴力的さえと言える疾走感、交通手段として縁の下の力持ちである社会的インフラストラクチャー、車内における人間観察の妙味はスマホに余裕で勝ってしまう、ここじゃないどこかへ連れてってくれるというまるで精神安定剤のよう、考えようによっちゃ時刻表って都市を縛り付けるルーティーンそのものでは、我が物顔で電車の路線が張り巡らされているのも凄い特権だな、ガタン、ゴトンと心地良い振動を伴う重低音もまた無意識に刻まれて… 等等。

かくかくしかじかの理由が、様々な角度からの浪漫を眺められ、何も撮り鉄だけが撮るわけではなく、写真に何らかの意味を見出したくあれば、順番が逆かもしれないけれど、それを撮ったのにはそれなりの動機がある筈みたいな、鉄道とは人間の情感に寄り添ってくれるものだから、これはという場面がゴロゴロ転がっている。

1西の空が夕焼けに暮れなずむ頃、妙に胸が締め付けられる思いをするもの、例えば車窓から洩れ出るオレンジ色の光りは、どこからともなく夕餉の匂いが鼻を突く、大海原に立ち向かう灯台のビーム、目が釘付けとなる焚き火の炎、それらと同義語に並べられよう。

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Banksy in 西成

建物の壁に落書きという迷惑千万なことをしながら、世界的な芸術家にまで奉られるようになったものだ、しかし法律的には一概にそれが駄目だと言っている訳でなく、下手糞だから建物の価値が下がる、つまり器物損壊などと同じ解釈であるらしい、それなら見事な出来栄え、しかも権威のお墨付きとくれば、世間の扱いは変わって来るだろう。

どうやら西成に現れたらしいという噂があって、この人物は社会的関心が旺盛であり、ユーモアの衣を被ってメッセージ性を含むという風刺がスタイルだけれど、地球の至る所に出没しては作品を残していき、その際に場所も吟味されるのだが、極東の島国で問題意識をそそられる場所と言えば、ここに出没しても全然不思議ではないと思われる。

当の本人が描いたのかどうか、それはどうでもいいことかも、逆に曖昧にしといたほうがロマンチックであるような、それより否応なく気付くのは、風景におけるアクセントとして落書きの有効性、敢えて蔑称のままで行くほうが気概を感じさせるだろう、こんな視点でブラブラ歩いてみれば、ちょこちょこと街の豊かな表情に出くわしたものだ。

1 それは結局のところ、単なる落書きでしかないから、遅かれ早かれ消え去る運命にあり、したがって、ある日、マンションの壁の塗り替えが行なわれれば、一切の跡形も無くなってしまう、この写真だけが在りし日の雄姿をとどめている。

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ねこ ネコ 猫 !!!

あれっ、ねこってのは相当に変な存在であるような? 人間社会に寄生しながらも、ペットであるのか、野良であるのか、どっちつかずな感じであり、おまけに奴らの習性として、それほど人間様に従順というわけでなし、だから道の真ん中を明らかな質量を持った毛むくじゃらが我関せずに大儀そうに横切っていたりすると、それは豪くシュールという風に見えてしょうがないんだが!

ところが、いざ写真を始めてみると、これがいい被写体なんだな! そしてネコに対し初めてと言っていい位の関心を向けてみれば… 一般にカメラを持っていると否応なく周囲から警戒されるもので、しかし、人は彼奴等の写真を撮っているならば深く納得するらしく、それ程までに、この存在は我々を蕩し込まずにおかないらしい、つまり、その居場所さえも無くなったら、人間社会は相当にヤバイってことなのかも?

世の中、猫派と犬派に分かれるものらしく、個人的にはピンポイントで柴犬がツボなんだけど、かと言って、前者をないがしろにするつもりは毛頭なく、その魅力に開眼したつもりでおり、それじゃ、何故に後者の写真を披露しないのか、しにくいのか、と言えば、ズバリ、奴らの自由気儘に徘徊しているのを羨望せずにはいられない、それは生存の厳しさと表裏一体でもある、といった生き様に帰結するからだろう。

1 その透徹した眼差しは、こちらの思惑を見通さずにはおかなく、かの夏目漱石は「我輩は猫である」が書かれたのも、さもありなん… 考えるに、そんな芸当が出来るケダモノと言えば、人間の横に居ながらも一線を画す、奴の他に置いていないだろう。

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孤高のGRⅡ

例の映画「ダークナイト」における冒頭シーン、繁華街のコーナーに猫背の男が立ちすくみ、後姿がクローズアップされていくと、手に持つのは珍妙なるピエロのマスク、これからを予感させる印象的なカットだけれど、我ながら如何なる頭の回路を辿ったものか、唐突ながらもGRⅡを彷彿とさせる。

これでしか撮れないものがあるなどと、謎々のようなことを言われては、おいおい本当かよ、と半信半疑であったけれど、使っていくにしたがい、カメラとして他と何も違うところはないが、明確にある方向性を持っているようで、メカ的な要素や操作系等等がそれに振られており、なるほど確かに、一寸独自のポジションを築き上げているな。

まるで冴えない外観であるがゆえ相手に警戒されないステルス性と言えよう、掌に収まるサイズであり250gほどの重さだから片手にて撮影が可能なんだ、情報を記録するセンサーサイズは最低限の高画質が保証されるAPS-Cが収まり、イメージセンサーが吐き出す絵作りの方向性は硬派の一言に尽きる、周辺部を含めれば人間の視野角に一番近い28mmの広角単焦点レンズがチョイスされて、ざっと、こんな感じにデフォルトでチューンナップを施してあるわけだが…

何に特化されているのか、写真を分類すれば幾つにも分かれるが、やっぱりストリートフォトにおけるスナップショットというのが面白く感じられ、それに関し、ある示唆に富む言葉が思い浮かぶ。

“When music is over, it’s gone in the air. You can never capture it again.”

“演奏されたものは虚空へと消え去り、もう二度と取り戻すことは出来ない。”

ジャズのジャズたる所以は即興にこそあり、瞬間的な閃きによって音楽が生み出され、その真髄を抉った簡明なる言葉なのだが、Eric Dolphyの「Last Date」というアルバムの最後に肉声で語られる。

写真を始めると物事を見る目も変わるようで、絵になるものは転がってないかとキョロキョロしていると、臆面も無く言わせてもらえば意外と世界は美しいことに気付かされるのであり、すべからくは本人の心がけ次第にかかっているのかな。

考えてみると、この世は一瞬だけで失われてしまうもの、その連続性で成り立っているに過ぎず、さすれば、その一片でも切り取ることが出来たのなら、めっけもののような気がしなくもなく、そこにこそ写真の存在意義があるのかもしれない。

はてさて、カメラの黎明期、写真を撮られるのなら魂を抜かれてしまうと恐れられたそうで、一概に無知蒙昧として片付けられないのは、撮る側と撮られる側の関係性に生じる業とも言うべきもの、個人の領域に侵犯するのは昔も今も変わっていないだろう。

もしかして、カメラを手にするならば、あたかも脛に傷を持つ者の如く、大手を振って歩けないだろう、それでも敢えてやろうというのは、曇りなき眼を持ちながら、被写体と一線を画し、世界と対峙する者たらんと、いわゆる盗人にも三分の理なんて言葉があるように、こういうのを確信犯と呼ぶべきかしらん。

そこでだ、無意識の内にも直感が閃いて、ピエロのマスクとGRⅡが被って来るのは、節穴の目には凡庸と映る日常を再発見するための、何やら物凄い武器になり得るぞ、そんな天啓にも撃たれ、本質を突く寓話の象徴みたいに登場して来るのである、ということで伏線を無事に回収す。

基本的に、その場しのぎのホラ話で相手を煙に巻くのを常とするが、そこに真実の一片を放り込むことで、あら不思議、相手の真意を計りかねて疑心暗鬼を生じさせる、それこそが本領発揮なのだけれど、そんなジョーカーの一番印象的な、と同時に自己告白ではないかと思われる語りとは…

“I believe whatever doesn’t kill you simply makes you stranger ”

“殺されるような目に遭った奴は、俺が考えるに、おかしくなっちまうもんだぜ。”

別に奇を衒っての、社会に対するアンチテーゼとしてのジョーカーではなく、いわゆるトリックスターの役どころを期待し、この現実をフラット化して再構築せんがため、つまり曇りなき眼でしっかと見定めたい、これこそが目的であり、そのための有効な手段がGRⅡなのだ。

…それにしても、どこからそんな考えが飛来したものか、或いは、内なる衝動が呼び寄せたのかもしれないな。

1 スナップを飛び超えて盗撮となる、その線引きとは… よくハイヒールなんて足の痛くなるもの履いているな、と常々思っていたが、お洒落は我慢という言葉もあるようだから、確かにこれはこれで悪くないかも… この位ならばお茶を濁すことが出来るだろうか。

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東大寺の痛快な仲間たち

ちょうど「太陽にほえろ!」の松田優作が吐いたセリフの調子でもって、なんじゃこりゃ!!と思ったのは、感動しましたとか、それに類する紋切り型のセリフよりも、これは現在進行形の感覚に通じているな、随分と昔に遡って作られたにもかかわらず、どれもこれもキャラが立ち過ぎているくらいで、時の風化に耐えるどころか未来をも先取りしてやがる、と腹を抱えて笑いたくなったほどなんだ。

慌てて17時閉館のところ16時過ぎに入ったから、時間との勝負で集中して写真を撮ったのだが、そうしたら、 にもかかわらず、いわゆる撮れ高がバンバン上がって、自分でもビックリなのだけれど、それだけ被写体が際立っている証左に他ならないわけで、もう撮っている最中に気付いていたことかも、そして成果の一端に高揚した気分の滲んでいるのが伝わらないものか、と期待せずにはいられない。

信仰に生きる狂信者、そこまで追い込むことが出来るのかいや自分には無理だな、歴史または年月の重み、それはそうだが時は確実に刻んでいて何にでも当てはまるはず、国宝とか世界遺産やら、そんな権威主義に目を曇らされてたまるかという矜持は守りたい、あれやこれやの理由付けが必要ないほどに突き抜けているのは、チームを構成する個々人の創造性が溢れており、単純にそれだけの話で、そのほうが余程サッパリしているかも。

時を超越して感覚の共通することに頭がクラクラしながら、文明は一方向へ進歩するはずなのに、これ以上のものが果たして生まれるのか、ある分野における頂点に達した作品ということで、東大寺に鎮座まします奈良の大仏さんとその愉快な仲間たちは現代を凌駕する出来栄えの芸術なのだと言い切ってよろしく、それが何故なんだという問いかけもまた投げかけてくる。

1ライカというメーカーがあって、平気で100万円オーバーのカメラを売りつけているが、よく、黒の中に黒がある、白の中に白がある、なぞと評されたり、この写真を見てそれがどういうものかを想像してみると、えらく魅惑的に聞こえるかも。

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❝食❞シリーズ

来る日も、飽きもせずに、欠かすことなく、それでも腹は減るわけで、毎回、新鮮な喜びを感じながら食事を取り続けており、改めて考えてみると、当り前すぎて思考停止に陥りがちであろうが、現代ニッポンでは様々な料理が取り揃えられ、今日はあれを喰ってやろう、消費エネルギーより摂取カロリーが上回ってヤバイぞ、ともすれば、その程度の皮相的な認識かもしらんけれど、食にまつわる想念とは様々なアプローチが可能なのであって、このテーマに関して己の中に何が潜んでいるのか、がっぷり四つで取り組んでみたい。

1 よく女子が、美味いものを食べて幸せ、とか言ってるのが耳に入ってくると、ケッ、何を言ってやがる、と瞬間的に反応してしまうけれど、この写真のどこがお気に入りなのかと言えば、ニュアンスの違いはあれど、まぁ言ってることその通りかもしれないな。

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えべっさん 2

良さげなものを片っ端から用意すると70枚ほどに膨れ上がり、そこから悪くは無いが訴えても来ないのを振るい落とし、並び順の構成を優先してピックアップしたら、最終的に40枚で落ち着いたが、70分の40というのは質と量に関していい塩梅であるかな。それだけの枚数分、コメントを付随させるとなれば、考えただけでウンザリしてくる、同じ系統の被写体も多くなるし、テーマが決まっているから話も広げにくい、どうにもこうにも、写真まずありきの文章をこじつけるという、思考の力技になりそうだ。冒頭に長めの文章を載せ、あとは写真を淡々と並べて行くだけ、にしてお茶を濁そうかとも考えたが、それだと後悔するのが目に見えており、そもそものコンセプトというか、写真と文章の両輪が揃うことで始めて回り出す、という決意表明を破っちゃいけない。一枚ずつ写真を見ながら何を書こうか、頭の中にある引き出しを引っ掻き回して、なんとかアイディアが沸いてくれば、後は文章の校正をしながらパソコン画面との睨めっこ、これを40回やってのけたら、書くことも上達しているに違いない、きっと!?

1 恵比寿と大黒のお面が並び、他にも、札や笹や鯛や小判や大福帳や鈴や御守りや米俵など、縁起のいいものばかりが笊と熊手にギュッと詰め込まれ、それらが雪崩のように覆い被さる、この場に特徴的な屋台は、お祭り気分を否が応でも盛り上げずにはおかない。

1件のコメント

えべっさん 1

「大阪百景」の作業を通じて、どれをピックアップするのか、撮り溜めたものを見直していたら、“今宮戎”において撮ったもので面白いものが多かった。まだ写真を始めて3ヶ月くらいの頃で、まともに人を撮ろうとカメラを向けたのも、今回が初めてだったと記憶する。一月の寒空の下、何時間にもわたり、時間帯を変えて、日にちをまたいで、結構粘って撮り歩いた甲斐があったというもの。ざっと50枚ほどの、お眼鏡に適ったものを選び出し、さらに10枚ほどを抽出して自己ベストで構成するつもりだったが、それだと後ろ髪を引かれる思いがしてしまう。瞬間を切り取りながらも物語が込められている完結した世界のもたらすインパクト、本来はこうありたいものだが、それと同時に、写真の属性として物事を記録するという役割もまた担っているはずだ。実際の今宮戎を歩き回った時に感じたこと、それを伝えるには厳選した少数だけでは物足りなく、それならいっそ、ありったけの武器弾薬を持ち出し、これでもかというくらい饒舌に説明してみせるほうが相応しくはあるまいか。

1 家族の肖像とは何やら気になるもので、この場合は、女の子の見上げた表情がすべてであるような、もしかしたら、やたら子供の心を捉えて離さないアンパンマンの吸引力の為せる技かもしらんが、無言ながらも実に雄弁な語りなのだ。

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動きもの

「映像研には手を出すな!」という漫画があって、オタクも突き詰めれば凄い武器になるぞ、というのが一番の印象なのだが、その登場人物の一人は、流れる動作、その仕草、細部の作り込み、兎に角そういった類のフェチであり、このこだわりが自分を救うんだ、とまで叫んでいる。それに比べたらあれなのだが、動いている様態とは、とても絵になると常々感じており、おまけに、瞬間を切り取る写真ならではの強みである、一連の動きがあったとして、それぞれを別個に分解することで、改めて躍動する美しさに気付かずにはいられない。先に挙げた作品は、単なる導入部というだけでなく、好きなものを追及すれば、一点突破して次なる地平が見えてくる、というオタク的なるものの凱歌を上げているようで、なにやら勇気づけられて、ちょっとこれからは動きものもやって行きたいな。

1 これくらい小さな子だとカメラを向けても無邪気に笑ってくれて、でも、もう少ししたら自我が芽生えてこうは行かなくなること必至であろう、だから子供を見ていると、失われたものの大きさに、ぽっかり穴が開いている気分となる。

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