ずっと前に読んだきりで、記憶はうろ覚えだけれど、未だに強烈な印象が残っているのは、ドストエフスキーの書いたドキュメンタリー風な「死の家の記録」という小説なのだが、その内容はと言えば、時の体制に批判的な政治活動をした廉で刑務所にぶち込まれ、死刑宣告を下されてしまい、そこでの見聞を元に書かれたもの。
まぁ何せ昔ということもあって、階級や地域や宗教や性別など様々な差異が現代より遥かに大きく、つまるところ頭でっかちな知識人の世界観を地面に引き摺り下ろした、そんな驚きの書みたいなイメージとして頭に刻まれている。
そこには確か“ロシアの農民は哲学者なのだ、この雄大な大地で日々の糧を得ていれば、自然と瞑想的な気分に耽らざるを得ない”という風なことが書かれていたかしらん。
その頃の僕はと言えば、ちょうど山登りに精を出しており、よくある何故に山を登るのかと問われれば、すぐにも一番に気の利いた理由として、自然の中に身を置くのなら文明が幾ら進歩しようとも、我々もまた生態系の一部なんだ、と原点回帰するのである。
まるで互いに首を締め合って生きているような人間社会のモヤモヤが雲集霧散される、そんなリセットしたかの如き感覚がかけがえのないものだった… 今でもその考えは変わらずのまんま。
兎に角、カメラをたすき掛けにして、自転車で走り回っていれば、おやっ、これは、と思う場面に出喰わすこともしばしば、取り敢えずパチリ、そうやって撮り貯めた写真の中には、己の皮膚感覚に訴えてくるのもあり、まるで忘却の彼方から甦ってきたような、その波長が通じる正体とは何なのか、意外と面白いものが見つかるかもしれない、と期待する次第なのだ。
#どうにも頭の片隅に残ってて、ここぞとばかりに拝借させて貰ったのは、これを聞かずして死ねるかと言いたくなるほどの、Bruce Springsteenは“It’s hard to be a saint in the city”という曲なんだが、残念ながら歌詞の内容的には関連性は無いかな、それでも、こんな感性の持ち主なんですよ、とシンクロしていると理解して貰えるのではないか… 蛇足ながら敢えて追記しておこう。

1 西洋では唯一絶対的な特定の存在となるようで、片や、一方の日本においては八百万の神と呼ばれるほどに霊が偏在しており、どちらかと言えば、四季折々、朝昼晩、天候の変化、このような自然の移ろいを毎日目の当たりにしていれば、もう胸が一杯となる。

2 文明の進歩を工業化社会と呼ぶのなら、例えば、時の風化に耐える建築物、畏怖の念を感じさせる程の大自然、はてまた微に入り細を穿った観光地、そういった類に匹敵するような、こういうのも現代版のテーマパークと言いたくなる位、リアル感が半端ない。

3 住人の数より空に舞う海鳥のほうが多いんでないか、そんな波打ち際にはバスの案内板とベンチが佇んでいるわけだが、雨ニモ負ケズ、風ニモ負ケズ、人の作りしモノが無言の内にも頑張っている、ただそれだけのことなのに、感情を揺さぶらずにはおかない。

4 大海原と対峙しながら、あれっ、確か、このバイク、フェリーで一緒だったよな、淡路島の北から南まで移動して、釣り人が竿を垂れている、ここで偶然再会したわけだが、傍から見れば、本人は露とも知らず、思いもかけずスケールの大きな絵と完成している。

5 和泉葛城山を登りに行った時、地元のおばちゃんが二人歩いており、散歩というには辺鄙なところだな、と思っていたら、ちょっと先に行ったら墓地が広がっていた、なるほどと頷いたのは、常々、日本の自然が美しい理由、それは人の手が入っていることだろう。

6 奇妙な感慨と百も承知で言うのだが、漠然とした衝動が湧いて来るのは、質実剛健に貫かれながらも、必要十二分なモノ達らに囲まれて、まるで水上に浮遊したかの如く、そんなイメージを具現化した部屋に私は住みたい、というのは一体如何なる訳なのか。

7 これまた一種の大地と共に生きる人の姿であるが、山を切り開き、粘土の底に水を貯め、苗を植えて、昔から積み重ねて来た田んぼの風景ということで、あるべきものがすべてそこに嵌まっている、いつの間にやら完璧な世界が一丁出来上がりという寸法。

8 別に日常の何ら変哲も無い光景だが、どこか心を打たずにはおかない、そんな気持ちを覚えさせられ、いわゆる地に足が着いている、という言い回しがあるけれど、何を言いたいのか自分でもよくわからないまま、もしや傑出した一枚をモノにしたのでは…

9 自然と対極に位置していながら、海に生きる手段としての人間の知恵があって、それが大海原に放り出されてみれば、とても美しい絵となっており、偶然か必然かは知らぬけれど、しかるべきところに落ち着いているのは、素晴らしき調和という不思議なのだ。

10 瞬間を切り取る写真ならではの、薄々気付いていながらも、改めて啓示されてみれば、深く首肯せざるを得なくて、ちょうど釈迦の掌に転がされているみたいに、自然とは解釈を超越しており、ここには思いもかけない程の静謐が宿っているのである。
【終わり]
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