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壱号機 CAAD10 その2

かてて加えて、体重を乗せるようにペダルを踏み込むのなら、作用反作用の物理法則どおり、洩れなく付いてくる路面からの跳ね返りは、それはそれは遠慮することなく路面状況を伝えてくれるわけだが、ここからもアルミフレームならではの力の伝達に関し、一寸思うところが出てくる。

この色の塗分けとロゴのプリントは完成されてると思うんだが、それに合わせてバーテープやアウターケーブル等々のカラーリングをどうするのか、乗る人間の美的感覚が問われるのである。

否応も無しに、我武者羅な踏み込みを強いられ、情け容赦のない突き上げを耐え抜いて、それもこれも天と地の間をつなぐ、この融通の利かないアルミフレームゆえであるが、まったくのところ、忌憚の無い意見を言わせてもらえば、なんだか良くも悪くも“ガチャガチャ”した乗り心地なのだ。

トンネルで写真を撮るのが好きなんだけど、そこかしこは暖色系に満たされており、もちろん自転車だってオレンジ色に染まっている。

基本的に日常の足として使っている分には、ロードバイクならではの長時間ライドをする機会はないし、まかり間違ってもラグジュアリーやシルキーな乗り心地といった仰々しい形容詞が冠されるはずもなく、その真逆に、気安さが適材適所と言うべきであって、つまり時と場所と場合のTPOをわきまえており、だから使い勝手を犠牲にした性能全開というよりも、ただ小気味良く走ってくれれば必要十分なんだ、そこがアルミフレームの一番気が利いている点であろう。

視覚とは光と闇のせめぎ合いのことであり、黒の濃淡により表現されるモノクロームこそが、対象の存在感を際立たせると言えよう。

んなこと言ってても、決してロングライドに向いてないというわけじゃなく、やってみれば意外といけたりもするから、面白いものだ。

いい写真であらねばならぬ条件とは、結果オーライの面白ければいいじゃないか、という出たとこ勝負が個人的なスタイルである。

ある日の早朝、走る気満々であり、準備も万端に整い、いざ出掛けようとしたら、ロングライドとなれば登場願うカーボンフレームなのだが、どうにもハンドルの回転がゴリゴリするではないか。ん? 訝しく思いつつ、ステムのネジを緩め、フロントフォークを抜いてみたら、カートリッジ式のベアリングに黒い物体が癒着している。こりゃ何だと首を傾げたが、後に判明したところでは、単なる錆に過ぎなかったようだ。思い当たる節と言えば、数ヶ月ほど前のライド中、土砂降りに見舞われたけれど、その時に雨水が浸入したのか。しかし解せないのは、質量のある頑固な付着物であって、よくある表面的な赤銅色のやつとはイメージがかけ離れ過ぎており、どうやら錆と一口で言っても色んな種類があるらしい。ちなみに後日、ヘッドパーツはきれいさっぱり交換しました。

カートリッジ式のベアリングに被せるヘッドキャップが、フレームに対して、これだけ隙間が空いてたら、そりゃ雨粒だって侵入するわなぁ。アホみたいな値段設定をしているくせに、スキがある過ぎるというのが、ロードバイクに対する、ぶっちゃけな印象なのだ。

はて、どうすることも出来ず、だが、もうすっかりやる気になっており、中止にする選択肢はさらさらなく、おもむろにCAAD10のペダルをフラットからビンディングに交換し、急遽コイツでワンデイライドに出掛けたわけだが、どうなることやらと不安がなくもなかった。まぁ実際には、最初の杞憂はどこへやら、案ずるより生むが易しといったところ。京都の桂駅までは輪行し、そこから小浜まで日本海を折り返し地点にして走ってきたが、特段問題もなく意外とスムーズに事は運んだのである。

案内標識を有難迷惑のように感じるのは、あそこまで行ってさらに帰って来なければならないと、これからの頑張りを覚悟しなきゃいけないからで、それじゃ何故に自転車に乗るのか、と自分でも不思議に思いながら走るのだが、答えは未だ出ていない。

ただ案の定と言うべきは、次の日になったら、如何なる理由か、いつもと脚が疲労した際の感触は随分と異なっていた。まるで無差別爆撃を受けた廃墟群のような、または鮫の一団に襲われた鯨の残骸のような、あくまでイメージであるが、そんな気分に見舞われたであろうか。おそらくは、負荷が繰り返しレッドゾーンを超えての回復不能なダメージが蓄積された挙句に、そのツケを払わされたということだろう。

12月の初旬、登りは息を切らして重いペダルを踏んで平気だったけれど、下り基調の尾根筋の道を走っていたら、体がガタガタ震えてバイクの挙動に影響が出るほどで、この一枚はそんな寒さを必死に耐えた苦心の裏話がある。

ふん、同じ走るにしても、フレームによって疲労の質が異なってくるのか、やっぱりね。身を持って痛感しながら、あくまで客観的に言ってのける、そんな二律背反のせめぎ合いが、ロードバイクの真髄と見つけたり、とまで言ったらアレかもしらんけど、言葉が汲めども尽きずに紡がれるだけの理由の一端であるに違いない。つまるところ、自転車乗りには機材マニア的な側面が付随する理由であり、わかりやすく食事に喩えてみれば、それは単なる生命維持活動にとどまらず、とても食いしん坊万歳的な側面があるわけで、むしろ意識の表層にはそれしかないと言ってもいいくらいだ。したがって、ロードバイクを大いに味あわんとすれば、三台くらい持っていても全く当然の話で、それ以上は単に物理的に乗ることができないからに過ぎない。それ位だから、相棒というような擬人化が為されるほど、思い入れたっぷりな所以であり、ましてや普段使いということもあって、一番たくさん乗っているのはCAAD10かもしれず、もしかしたら出来の悪い子ほど可愛いみたいな感情の綾が発生しているかも、と取り敢えず結んで置こうか。

【終わり】

カテゴリー: 自転車

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