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大阪百景3

さて何を書こうかな、と朧に虚空を睨みつつも、無から有が生まれる道理はなくて、雑多な想念から真髄を抽出すべく、頭をフル回転させて何かが降りてくるのを待つけれど、厚い霧の中を彷徨っているようなものだから、はたからはフリーズしているとしか見えず、これは生みの苦しみと言うべきか、写真より書くことのほうが大変と感じる。

21 西成に現れたらしい、という話を聞きつけて探しに出かけたら、ほんの近所でこれが簡単に見つかったのだが、他の落書きに埋もれてその存在感にもかかわらず上手く溶け込んでおり、わかる人にはわかるだろう、という洒落っ気に笑いが込み上げてきた。

22 朝の通勤ラッシュ時、駅のホームにおける一場面であるが、人間とは個人というよりも集団で動く社会的な生き物であると斜に構えたくなるけれど、そうやってせっせと構築してきた日常のかけがえのなさ、その土台は決して磐石ではないかもしれないとも思う。

23 こんな目をする生き物が他にいるだろうか、まるで恋をする乙女や親に全幅の信頼を寄せる赤子みたいであるが、人間の感情は一時的なもので次の瞬間に心変わりしてしまうから、そんな我々であっても寄り添ってくれる犬というのは貴重な相棒じゃないか。

24 淀川の河川敷を歩いてみれば、リタイヤした老人たちがノンビリと釣竿を垂れているが、その横で何かの水鳥が釣った肴のご相伴にあずかろうと、さも当たり前のように佇んでおり、ここは時間が止まったような都市とは異なる空気が流れている。

25 こやつもまた河べりの遊歩道で出会った猫なのだが、野良のくせにでっぷりと肥えているし、悠然と構えているのは腕っ節に余程自信があるのか、こんなふてぶてしい猫はこれまで見たことがなく、淀川河川敷の主というような雰囲気を醸し出している。

26 都市というコンクリートジャングルを抜けて、河のほとりに出てみれば、どこか救われたような気分となるもので、そして対面に見える六甲山は、個人的に繰り返し自転車で登っており、大阪と言えばこれだ、という原風景として記憶に刷り込まれつつある。

27 奇妙な感慨であるのは百も承知なのだが、昔のロボットアニメみたいな高揚感を覚えるのは、水上という浮遊感が丁度SF映画みたいな近未来感を演出し、背景にある高層ビル群に連なる巨大建築物が造り出されるという、厨二病男子の浪漫をくすぐるのである。

28 老朽化した駅の構内という掃き溜めに舞い降りた白鳥ならぬワインレッドのドレスを着た妙齢の女性を、遠近感を利用した日の丸構図のど真ん中に置くだけで絵になると勝手に思い込んでいるのは、男の妄想の為せる技であろうかと少し心配する。

29 意外と地下鉄が発達しているのは大都市に限られて、それだけ人口過多であり土地の有効利用が必要だからで、人の仕事や暮らしの領域は上へ上へと伸びていき、ひるがえって地中の交通はその網の目を複雑に張り巡らし、今日もまた人々は階段を深く降りていく。

30 単なる箱物だけでは画竜点睛を欠くというか、そこに仕上げを施すのは人間であり、祈る人がいるおかげで初めて神社に有り難味が生まれ、いくら煩悩の塊であっても神様の前では多少は殊勝な心持ちとなるはずで、これは相互補完の見事な調和と言えよう。

【終わり】

カテゴリー: 写真

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