例の映画「ダークナイト」における冒頭シーン、繁華街のコーナーに猫背の男が立ちすくみ、後姿がクローズアップされていくと、手に持つのは珍妙なるピエロのマスク、これからを予感させる印象的なカットだけれど、我ながら如何なる頭の回路を辿ったものか、唐突ながらもGRⅡを彷彿とさせる。
これでしか撮れないものがあるなどと、謎々のようなことを言われては、おいおい本当かよ、と半信半疑であったけれど、使っていくにしたがい、カメラとして他と何も違うところはないが、明確にある方向性を持っているようで、メカ的な要素や操作系等等がそれに振られており、なるほど確かに、一寸独自のポジションを築き上げているな。
まるで冴えない外観であるがゆえ相手に警戒されないステルス性と言えよう、掌に収まるサイズであり250gほどの重さだから片手にて撮影が可能なんだ、情報を記録するセンサーサイズは最低限の高画質が保証されるAPS-Cが収まり、イメージセンサーが吐き出す絵作りの方向性は硬派の一言に尽きる、周辺部を含めれば人間の視野角に一番近い28mmの広角単焦点レンズがチョイスされて、ざっと、こんな感じにデフォルトでチューンナップを施してあるわけだが…
何に特化されているのか、写真を分類すれば幾つにも分かれるが、やっぱりストリートフォトにおけるスナップショットというのが面白く感じられ、それに関し、ある示唆に富む言葉が思い浮かぶ。
“When music is over, it’s gone in the air. You can never capture it again.”
“演奏されたものは虚空へと消え去り、もう二度と取り戻すことは出来ない。”
ジャズのジャズたる所以は即興にこそあり、瞬間的な閃きによって音楽が生み出され、その真髄を抉った簡明なる言葉なのだが、Eric Dolphyの「Last Date」というアルバムの最後に肉声で語られる。
写真を始めると物事を見る目も変わるようで、絵になるものは転がってないかとキョロキョロしていると、臆面も無く言わせてもらえば意外と世界は美しいことに気付かされるのであり、すべからくは本人の心がけ次第にかかっているのかな。
考えてみると、この世は一瞬だけで失われてしまうもの、その連続性で成り立っているに過ぎず、さすれば、その一片でも切り取ることが出来たのなら、めっけもののような気がしなくもなく、そこにこそ写真の存在意義があるのかもしれない。
はてさて、カメラの黎明期、写真を撮られるのなら魂を抜かれてしまうと恐れられたそうで、一概に無知蒙昧として片付けられないのは、撮る側と撮られる側の関係性に生じる業とも言うべきもの、個人の領域に侵犯するのは昔も今も変わっていないだろう。
もしかして、カメラを手にするならば、あたかも脛に傷を持つ者の如く、大手を振って歩けないだろう、それでも敢えてやろうというのは、曇りなき眼を持ちながら、被写体と一線を画し、世界と対峙する者たらんと、いわゆる盗人にも三分の理なんて言葉があるように、こういうのを確信犯と呼ぶべきかしらん。
そこでだ、無意識の内にも直感が閃いて、ピエロのマスクとGRⅡが被って来るのは、節穴の目には凡庸と映る日常を再発見するための、何やら物凄い武器になり得るぞ、そんな天啓にも撃たれ、本質を突く寓話の象徴みたいに登場して来るのである、ということで伏線を無事に回収す。
基本的に、その場しのぎのホラ話で相手を煙に巻くのを常とするが、そこに真実の一片を放り込むことで、あら不思議、相手の真意を計りかねて疑心暗鬼を生じさせる、それこそが本領発揮なのだけれど、そんなジョーカーの一番印象的な、と同時に自己告白ではないかと思われる語りとは…
“I believe whatever doesn’t kill you simply makes you stranger ”
“殺されるような目に遭った奴は、俺が考えるに、おかしくなっちまうもんだぜ。”
別に奇を衒っての、社会に対するアンチテーゼとしてのジョーカーではなく、いわゆるトリックスターの役どころを期待し、この現実をフラット化して再構築せんがため、つまり曇りなき眼でしっかと見定めたい、これこそが目的であり、そのための有効な手段がGRⅡなのだ。
…それにしても、どこからそんな考えが飛来したものか、或いは、内なる衝動が呼び寄せたのかもしれないな。
1 スナップを飛び超えて盗撮となる、その線引きとは… よくハイヒールなんて足の痛くなるもの履いているな、と常々思っていたが、お洒落は我慢という言葉もあるようだから、確かにこれはこれで悪くないかも… この位ならばお茶を濁すことが出来るだろうか。